昭和天皇のエピソード

日米の氷解(前編)

昭和天皇

日本とアメリカは太平洋戦争を戦った間柄。昭和26年(1951年)に署名されたサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約、Treaty of Peace with Japan)によって両国は友好国として再出発することになりましたが、わだかまりが解けるにはまだ時間を必要としていました。


フォード元大統領
▲フォード元米国大統領

第38代アメリカ合衆国大統領ジェラルド・ルドルフ・フォード・ジュニア(Gerald Rudolph "Jerry" Ford, Jr.)は、昭和49年(1974年)8月にリチャード・ニクソンの大統領のウォーターゲート事件を原因とした辞任によって大統領に昇格。大統領選挙に勝利せずに大統領職に就任した米国史上唯一の人物です。

フォードは大正2年(1913年)ネブラスカ州で生まれ、ミシガン州で少年時代を過ごしたのちミシガン大学へ進みました。大学時代はアメリカンフットボールの選手として名を馳せ、太平洋戦争中は海軍に、戦後は下院議員として働き、その後大統領に指名されます。
大統領職への信頼回復に努めたフォードはその功績については評価されましたが、それ以外については特に目立ったポイントを稼げず、就任から2年後の大統領選挙では敗北しています。

いまひとつパッとしない印象ではありますが、日米関係という観点で見ると、やはり大きな功績を上げた人物だと言えるでしょう。
彼は史上初めて訪日した米国大統領でした。安政5年(1858年)に日米修好通商条約が締結されてから116年もの間、米国大統領の訪日は一度も実現したことがなかったのです

日本復帰署名運動
▲沖縄で展開された日本復帰署名運動
昭和29年(1954年)当時

しかもフォードは大統領に就任した初日に日本の駐米大使と会談し、そして初めての外国訪問地に日本を選んでいます。2年前に沖縄返還が実現し、日本企業の米国進出も盛んになって来た時期だったこともあり、両国の政治だけでなく経済的結びつきも強固になったあらわれでしょう。
昭和35年(1960年)に予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日が安保闘争の煽りを受けて流れてしまったことを考えると、時代の変化を窺うことができます。

フォードが大統領に就任して3カ月後の11月18日。その日がやって来ました。15時半、羽田空港に到着したフォードは、すぐに歓迎式典のために迎賓館赤坂離宮へ向かいます。
迎賓館は東宮御所として明治42年(1909年)に建設されたものですが、戦後皇室から政府に移管。その後、国立国会図書館、裁判官弾劾裁判所、内閣憲法調査会、東京オリンピック組織委員会の事務所として使用されたのち、再度改修されて迎賓館となった歴史があります。

迎賓館赤坂離宮
▲迎賓館赤坂離宮
(画像引用:内閣府)

その改修後の迎賓館に初めて訪れた要人もやはりフォード。
当時、迎賓館の運営に携わった外務省大臣官房儀典官室の野坂康夫(のざかやすお・現鳥取県米子市長)さんは「迎賓館は、開館したばかりで運営が確立しておらず、その基礎づくりが最初の仕事だった。
実際に食事、掃除などのサービスを行なうホテルとの打ち合わせ、警備する警察との打ち合わせ、車の回しかたなど関係者との協議、行事のリハーサルが続いた。歓迎行事は、それまで空港で行なっていたのを、迎賓館の前庭で行なわれることになった。
リハーサルしてみると、前庭の石畳がでこぼこし過ぎていて、赤じゅうたんをひいても、極めて歩きづらいことがわかり、急遽、作業員の人たちが手作業で平らにした」と手記を綴っています。

ポトマック川の桜
▲ポトマック川の桜と
Martin Luther King, Jr. Memorial
(画像引用:AP通信)

歓迎式典ののち、フォードは皇居宮殿へ。昭和天皇への謁見に臨みます。
初の日本訪問を果たした米国大統領は、天皇陛下が初めてご会見した米国大統領でもあるのです。このときフォードは緊張で足が震えたと言います。「人生でこれ以上の緊張をこれまで体験したことはない」と後日述べたフォードは宮中晩餐会が終わったのち、緊張をほぐすために迎賓館で遅い時間までお酒を飲んでいたのだそうです。

翌日帝国ホテルで行われた日本記者クラブでの演説でフォードは「きのう天皇陛下をご訪問申し上げた際、私は陛下の米国ご訪問を改めて招請した。
米国のこれまでの偉大な英雄たちの記念塔の背景をなしている優美な日本の桜、その他米国の国家的な聖地や秘宝を陛下にお見せする最初の米国大統領となることはこの上ない喜びである」と述べ、緊張しつつも昭和天皇のお人柄に触れて魅了され、再会を早くも望んでいる様子が読みとれます。

その希望はすぐに現実のものとなりました。昭和天皇の米国ご訪問の日程が決定したのです。
翌昭和50年(1975年)9月30日。昭和天皇は米国東海岸バージニア州のウィリアムズバーグ(Williamsburg)に日航機で御着します。
それまで米国内のメディアは昭和天皇のご訪問に大して触れなかったため、米国民の関心はさほど高いものではありませんでしたが、御着以降一転。連日、山のような報道で埋め尽くされ、そのフィーバーぶりはご訪問中の2週間ずっと続くことになるのです。

フォード大統領とご会談される昭和天皇
▲ホワイトハウスでフォードとご会談
(画像引用:the Gerald R. Ford Museum)

陛下はウィリアムズバーグに続いてワシントンD.Cのアンドリュース空軍基地に降り立たれました。
雨天が続いていたワシントンでしたがようやく雨も上がり、フォードと再会を果たしたあとでの屋外会見では晴れ間がさっと射しました。すると群衆からどよめきが上がります。ABCの記者が「さすが陛下。太陽を呼び戻しました」と中継したほどです。

下の写真はホワイトハウスで挙行された晩餐会に向かわれる両陛下とフォード大統領夫妻。フォード大統領はやはり緊張していたようで、右手と右足が同時に出る歩きかたをしていますね。

晩餐会へ向かう陛下

その晩餐会で発せられた昭和天皇のお言葉は、アメリカ国民の心を鷲掴みにしてしまいます。

私は多年、貴国訪問を念願にしておりましたが、もしそのことがかなえられた時には、次のことをぜひ貴国民にお伝えしたいと思っておりました。
と申しますのは、私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国がわが国の再建のために、温かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました。

当時を知らない新しい世代が、今日、日米それぞれの社会において過半数を占めようとしております。
しかし、たとえ今後、時代は移り変わろうとも、この貴国民の寛容と善意とは、日本国民の間に、永く語り継がれていくものと信じます。

会場に大きな拍手が湧き、晩餐会は予定よりずれ込んで遅い時間まで続きました。この陛下のお言葉はもちろん戦後の混乱期の食糧援助などを指したものですが、受けた恩を忘れず謝意を率直にお示しになった陛下に対する称賛の声は報道に乗って米国全土に広まりました。

デイヴィッド・ロックフェラー
▲デイヴィッド・ロックフェラー

報道は連日続き、アーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への供花も、ニューヨークでのロックフェラー邸ご訪問も大々的にメディアをにぎわせます。

そのとき、デイヴィッド・ロックフェラー・シニア(David Rockefeller, Sr.)は「弊グループの銀行の支店が皇居に近いので(シティコープ東京支店、現シティバンク銀行大手町支店)、ご利用ください」と陛下に冗談をもちかけ、「預ける方か、借りる方か」とお返しになった陛下に「どちらでも結構です」と答えて場が和んだという逸話も残っています。

同じ日、両陛下はアメリカンフットボールの試合もご観戦になられました。
先立ってその前日の晩にも陛下のもとを訪ねて来られたフォードとアメリカンフットボールの話でご歓談されています。
フォードが「大統領という立場だとどちらかのチームを応援するわけにもいかず、試合を見る時は困ります」と申し上げたところ、陛下はフォードがアメリカンフットボールの名選手だったことを引き合いに「明日の試合にあなたが出ていたら、特に困りますね」とにこやかに語ったそうです。

→後編につづく

参考:wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%
83%A9%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BBR%E3%83%BB%E3%83%95%
E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89)
米子市(http://www.city.yonago.lg.jp/9464.htm)
EMBASSY OF UNITED STATES IN JAPAN
(http://aboutusa.japan.usembassy.gov/pdfs/wwwf-usj-potusvisit-ford1.pdf)
加瀬英明著 実業之日本社刊「昭和天皇 三十ニの佳話」


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