皇室にあふれる素敵な逸話

皇室ご一家▲皇室ご一家 画像引用:宮内庁(http://www.kunaicho.go.jp/)

皇室のとっておきのストーリー、読んでみませんか

皇居二重橋

日本国の象徴であり、国民統合の象徴であると憲法第1条で定められている天皇。天皇陛下と皇族を皇室と呼びますが、神武以降の悠久の歴史と功績を収めてきただけに、皇室には数え切れないほどのエピソードがあります。

なかでも、思わずほっこりしてしまう逸話や感動秘話、なるほどと膝を打つ話などを各所から集めてみました。


どれも珠玉のものばかりの皇室エピソード。じっくり読んでみませんか。

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横綱の涙

今上陛下

日本の国技とされている相撲。そのはじまりをご存じでしょうか?
それはなんとびっくりの紀元前。第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代に、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が大和国(奈良県)桜井市で相撲をとったのが最初とされています。当時の相撲は現在とは全く異なるもので、蹴り技が主流でした。結果、野見宿禰が勝利し、當麻蹶速は背骨を折られて死亡するという、なんとも壮絶な戦いだったのです。

それ以外にも古事記には神世の時代にも相撲の原点らしい建御名方神(たけみなかたのかみ)の争いの記述もあり、相撲の歴史は日本の歴史と同じくらいに長いものです。
それだけに相撲は神道、そして皇室と非常に深いつながりを持っています。

野見宿禰
▲野見宿禰

古墳時代の雄略天皇13年(469年)になると「相撲」という文字が登場し、奈良時代の神亀3年(726年)には、突く・殴る・蹴るの三手の禁じ手と四十八手および作法や礼法が決められます。天覧相撲も行われるようになり、武士の世の中になると将軍や大名も相撲を好んで観覧しました。
江戸時代には相撲を職業とした大相撲がはじまり、歌舞伎役者と並んでスターとして看做されていきます。

このような相撲の発展と歴史と切っても切り離せないのが神事です。
初めて相撲をとった野見宿禰と當麻蹶速は相撲の神として崇められていますし、全国各地に相撲を奉納する神社が数多くあります。

勝ち負けがはっきりしている相撲は、吉凶を占う目安にしやすく、境内で相撲をとり、その年の作柄を判断する好材料となりました。
また神社仏閣の改修資金や大火事で燃えた町の再生資金の調達のために興行されたりもしました。

その中で力士が四股を踏む動作は、土の中の邪気を払う意味があり、神事において非常に重要視される所作。力士が塩を撒くのも同じ意味があるとされています。

唐戸山神事相撲
▲石川県羽咋市の唐戸山神事相撲 (画像引用:羽咋市)

このように古来から連綿と受け継がれてきた相撲は、神道とともにあったわけです。それゆえに力士、とりわけ横綱ともなれば神官と同様の徳ある人物であり、ただのスーパースポーツマンではないと目されています。
横綱とは語源を辿れば、文字通り綱、それも横綱だけが腰に締めることができる注連縄のこと。注連縄に必須の御幣(ごへい)が下がっていることを見ても、いかに神聖な存在であることがわかります。
相撲はスポーツではなく神事であるゆえ、力士には人格者たることが求められ、不道徳な振る舞いは世間から大きな批判を浴びるのです。

それゆえ、土俵上でガッツポーズをすることが諌められたり、まして私生活で暴力事件を起こすなどの不祥事があれば、引退を余儀なくされてしまいます。第68代横綱朝青龍がまさにその例でした。

そんな中、平成22年(2010年)に大きな騒動が角界で巻き起こりました。いわゆる大相撲野球賭博問題です。
5月、大関・琴光喜(ことみつき)が暴力団を胴元とした野球賭博に関与していたとの週刊誌報道が発端となり、騒ぎへと発展します。暴力団からの脅迫も加わり、警察の捜査が入った結果、琴光喜だけでなく65名にも及ぶ力士や年寄などが関与していたことが判明しました。

騒動を受け、7月の名古屋場所は寂しいものとなります。
日本相撲協会は優勝力士に贈られる内閣総理大臣杯の辞退を宣言したのをはじめ、外部から贈呈される22の全ての表彰を辞退しました。恒例であったNHKの中継も史上初となる中止の処置を下します。
場所の入場者数も事件を受けて減り、観覧チケット払い戻しも相次いだため、満員御礼となったのは前年のわずか半分の4日間のみでした。

平成22年名古屋場所
▲平成22年名古屋場所 (画像引用:鉄子だっていいじゃない )

その異常ともいえる状態で迎えた千秋楽。この状況下で優勝を飾ったのは第69代横綱・白鵬(はくほう)でした。史上初となる「3場所連続15戦全勝優勝」という快挙を成し遂げた表彰式です。
土俵に立つ白鵬の眼には涙。しかしそれは嬉し涙ではなかったのです。

目に涙を浮かべる白鵬
▲目に涙を浮かべる白鵬
(画像引用:日刊スポーツ)

涙の理由、それは土俵に本来あるはずのものがなかったからなのでした。あるはずのものとは天皇賜杯(てんのうしはい)―――

天皇賜杯とは菊花紋章が配された銀製のトロフィーのことで、その歴史は大正14年(1925年)に遡ります。
昭和天皇の皇太子時代に、誕生日祝賀のための台覧相撲が開催されました。その折に当時の東京大角力協会に寄付金が下賜され、それをきっかけに摂政宮賜杯が作られたのです。

数か月後、東京・大阪にあった協会が一本化して大日本相撲協会が設立され、賜杯を賭けて争う現代の大会のスタイルが完成しました。
天皇賜杯は以降、大相撲の勝利の象徴であり続けたのです。

大相撲の天皇賜杯
▲大相撲の天皇賜杯
(画像引用:FourTildes/Wikipedia)

白鵬が涙を流したのも、それゆえのことです。
土俵下のインタビューでも、「この国の横綱として、力士の代表として、賜杯だけはいただきたかった」と震え声でインタビュアーに応える姿を見せました。

相撲が神事であり、神道の信仰の対象の重要な要素が「天皇」であることを鑑みれば、大勝負の勝利の栄誉たる天皇賜杯を受けられないことが、白鵬にとってどれほどの無念であったか、たやすく想像できます。

翌日の記者会見でも白鵬は「自分はこれまで何度も優勝して賜杯を手にしているが、これがもし初優勝の力士だったら、賜杯のない状況をどう受け止めるだろうか」と語りました。

無論、白鵬もまた野球賭博と無縁だったわけではありません。花札で金を賭けていました。金額が軽微とみなされたため厳重注意で済んだだけで、賜杯を乞う立場ではないと、白鵬を批判する向きもありました。

それでも白鵬がモンゴル出身の外国人力士でありながら、日本人以上に相撲のなんたるかを理解していたのも事実。
翌月、そんな失意の白鵬に嬉しい報せが届いたのです。

それは今上陛下からの書簡でした。
おねぎらいとお祝いと題されたその書簡は、今上陛下のお言葉を伝達する形式で宮内庁の川島裕(かわしまゆたか)侍従長が書いたもので、日本相撲協会の村山弘義(むらやまひろよし)理事長代行に宛てて届けられたものです。

「困難な状況にありながら、連日精励奮闘して幕内全勝優勝を果たしたのみならず、大鵬関の連勝記録を超え、歴代第3位の連勝記録を達成した白鵬関に、おねぎらいとお祝いをお伝えになるとともに、今後とも元気に活躍するよう願っておられる」という内容であったそうで、
これを受けて白鵬は「こんなにうれしい言葉はありません。今年はまだ2場所あるので、天皇陛下の言葉を励みに頑張っていきたい。帰ってから一人で読みたい」と書簡のコピーを受け取った喜びを涙交じりに会見で見せていました。

宮内庁によると今上陛下の祝意を力士に書簡で伝達したのは、もちろん前代未聞。今回の書簡も陛下御自身の御発案で、「大相撲を長年、大切に考えてきた陛下は、野球賭博をめぐる問題を大変心配されていた。そうしたなかでの白鵬の頑張りに対し、何とかお気持ちを伝えたいと思われたのだと思う」と側近は語っています。

「これ以上のものはない。心から喜んでおります。光栄です」と述べた白鵬はその年、江戸時代の大横綱谷風に並ぶ史上2番目の記録である63連勝を打ち立てる偉業を達成。
その後も目覚ましい活躍を続けているのは皆さんご存じの通りです。

参考: 国際派日本人養成講座(http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/
jogdb_h23/jog683.html)
日刊スポーツ2010年8月4日号


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