皇室とパラリンピック
パラリンピック(Paralympic Games)という言葉を知っていても、その語源は? と言われると首を捻る人も多いことでしょう。パラリンピックはパラプレジア(Paraplegia・下半身麻痺者)とオリンピックを足して2で割った造語です。いかにも和製英語っぽい組み合わせではありますが、それもそのはず。パラリンピックという言葉を生んだのは日本人なのです。
▲ストーク・マンデビル競技大会
(画像引用:Carrying The Torch)
第2次世界大戦において脊髄を損傷した傷痍軍人たちのリハビリテーションを目的に、昭和23年(1948年)競技会が開催されました。開催場所の病院名からストーク・マンデビル競技大会(International Stoke Mandeville Wheelchair Games)と呼ばれます。
昭和35年(1960年)に開催されたローマオリンピックでは、同時に国際ストーク・マンデビル競技大会も開かれました。この大会がのちにパラリンピックの第1回大会とされています。
第2回大会はご存じ東京オリンピックと同時開催された昭和39年(1964年)開催大会です。この大会では“愛称”としてパラリンピックの文字が初めて登場します。
昭和60年(1985年)にはパラリンピックの名はIOC(国際オリンピック委員会)により正式に認められ、パラプレジア(Paraplegia)のほかにパラレル(Parallel、平行)の意味を加えてもう一つのオリンピックとして定義されるようになるのでした。
パラリンピックの名が初めて登場した第2回東京大会の名誉総裁を務められたのが、今上陛下と皇后陛下、当時の皇太子殿下、妃殿下です。
昭和39年(1964年)11月8日快晴。会場の代々木公園陸上競技場(織田フィールド)では「上を向いて歩こう」のマーチのもと入場行進と開会式が行われました。
▲開会式での皇太子殿下と妃殿下
(画像引用:公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会)
式典では皇太子殿下がおことばを述べられました。
「わたくしは、この名誉ある大会の主催者側であることをうれしく思います。それは、この大会が、わが国の身体障害者に大きな希望と激励を与えてくれると思うからであります」とのおことばのとおり、パラリンピックが持つ意義を改めてここで表明されたのです。
競技は7日間に渡って挙行され、そのうちの4日間、皇太子殿下および妃殿下のご臨席があり、また競技開催中は選手や役員たちと親しくご観覧、ご激励なさいました。また当初予定になかった皇后陛下(香淳皇太后)の行啓もありました。
▲洋弓場をご覧になるご様子
(画像引用:公益財団法人日本
障害者リハビリテーション協会)
また大会終了後には両殿下は東宮御所に関係者をお招きになります。その折に殿下は次のようなことを仰ったそうです。
「日本の選手が病院や施設にいる人が多かったのに反して、外国の選手は大部分が社会人であることを知り、外国のリハビリテーションが行き届いていると思いました。このような大会を国内でも毎年行ってもらいたいと思います」
このおことばが契機となり、毎年行われている国民体育大会と同時に全国身体障害者スポーツ大会が翌年から挙行されるようになりました。
時は流れて平成。再び日本でパラリンピックが開かれる時が来ます。平成10年(1998年)の長野パラリンピックです。昭和47年(1972年)の札幌オリンピックのときはまだ冬季パラリンピック大会は実施されておらず夏季大会のみでしたが、昭和51年(1976年)エーンシェルドスピーク大会より冬季も開催されるようになりました。
この長野パラリンピックに先駆けて開催されたオリンピックのため長野へ行幸啓された両陛下。ショートトッラクスピードスケート女子500mやノルディック複合団体クロスカントリー、フィギュアスケート女子シングルフリーなどをご観覧され、閉会式にご臨席されました。
▲ご観戦される両陛下
長野県須坂市長で当時長野県庁秘書課長だった三木正夫(みきまさお)氏は行幸啓をとりまとめる長野県側の担当を務めており、競技場の外での両陛下のご様子をコラムの中で次のように記しています。
ホテルの玄関にご到着され、御料車を降りられ、歓迎の皆さんに手を振られたあと、雪の中を前に進まれ、雪に濡れながら手を振っていらっしゃったのが印象的でした。
焼額山で行われた回転競技の際にも雪が降っていましたが、皇后陛下が何気なく天皇陛下のために傘をおさしになり、天皇陛下もごく自然に皇后陛下の足元を気遣う様子に微笑ましさを感じました。
天皇・皇后両陛下及び皇太子殿下・皇太子妃殿下のご休憩の際に、お茶を女性二人でお出ししました。必ず帰りぎわ、お茶をお出しした女性二人に直接お礼をおっしゃりました。感激のあまり涙ぐむ女性もいました。
翌3月11日12日は再度長野へ行幸啓され、パラリンピックにご臨席。会場は長野市オリンピック記念アリーナ(エムウェーブ)で、競技はアイススレッジスピードレース女子・男子1,000メートルでした。ホームストレートでご観戦されておられた両陛下。その折の皇后陛下のほっこりエピソードが伝わっています。
製氷中のことです。会場の観客席でウェーブが起こりました。ウェーブというものを初めてご覧になった皇后陛下は、興味深く人の波がうねる様子を眺めておられました。ところが波が両陛下の少し前あたりで何度か止まってしまうのです。左手にいる子供たちが心配げに両陛下を見つめていたのを、皇后陛下はハッとお気づきになります。
▲ウェーブに参加される皇后陛下
波を止めてはいけない、なんとかして繋げねば。そうお考えになった皇后陛下は、今上陛下に許しを得て両手を高らかに掲げました。「その後波が半周し、向かい側の吹奏楽団の生徒たちがチューバやホルンをもってとびはねたのが面白く、もっと見たくて次の何回かの波にも加わりました」と後日感想をお述べになっておられます。
隣でにこやかに微笑みながら皇后陛下をお見つめになられる今上陛下とあわせて、両陛下のお人柄を偲ばせるエピソードです。
参考:公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会(http://www.dinf.ne.jp/doc/
japanese/resource/handicap/jsad/z16002/z1600201_1.html)
須坂市 いきいき須坂 市長のコラム(http://www.city.suzaka.nagano.jp/
contents/head/index.php)
宮内庁(http://www.kunaicho.go.jp/)
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