昭和天皇のエピソード

日米の氷解(後編)

昭和天皇

日米の氷解(前編)はこちらから。


昭和天皇とミッキーマウス
▲昭和天皇とミッキーマウス

その後も昭和天皇は精力的に動かれて、ロサンゼルスに御着。

ディズニーランドでは、パレードをご覧になられました。その途中で現地の幼い男の子マイケル君が香淳皇后のもとに寄り添ってきます。香淳皇后もまたにこやかに手をとってご一緒にパレード見物をされたのでした。

またディズニーランドご訪問に際してはウォルト・ディズニー・カンパニー(The Walt Disney Company)からミッキーマウスの腕時計の献上を受けられます。
この腕時計は金型製法による大量生産を世界で初めて行ったインガーソル社(Ingersoll)によって造られたもので、ウォルト・ディズニーの依頼により、腕が針になって動くミッキーマウスの時計を生産できないかと提案されたのがきっかけでした。
ファーストモデルは昭和8年(1933年)にアメリカのシカゴ万国博覧会でリリースされ、大変な人気を博します。そのファーストモデルを忠実に再現したリモデル版を昭和天皇に献上したのでした。

ディズニー・インガーソル
▲ディズニー・インガーソル
(画像引用:インガーソル社 ©Disney)

この腕時計を陛下は大層お気に召したようで、普段からご愛用になられます。
ところがこの腕時計の献上は訪米中にはマスコミに明かされず、陛下もその旨を語ったわけではありません。当然、世間は時計のことなどつゆ知らずでしたが、意外なところでこれが公になりました。
それは訪米から2年半も経った昭和53年(1978年)のこと。

高知県で全国植樹祭が開催された際の話。
植樹祭に行幸された陛下の袖口からちらっと覗いた腕時計が記者のカメラに収められ、新聞で報道されたのです。
陛下がミッキーマウスの腕時計をしている、というミスマッチは世間の関心を呼びました。

ふだんづかいならともかく、ご公務のときにはミッキーはおやめくださいと側近は促したかったのだそうですが、壊れても修理して使い続けられるべく部品を取り寄せるまでの大事にされようなので、そう申し上げるわけにもいかなかったのだとか。

結局、昭和56年(1981年)に三洋電機株式会社をご視察になられた際に太陽電池式の腕時計を献上されるまでは、ずっとミッキーマウスの時計をお召しになっていたのでした。
それも環境・資源問題を考えて太陽電池式に換えたという話ですから、ものを粗末にせず大事に使う陛下のお人柄がよく表れているエピソードです。

また、両陛下は米国に渡った日系人の苦労を称えるべく、現地の日系人とも多く触れ合っています。ロサンゼルスやサンフランシスコはもちろん、帰路においてはハワイにもお立ち寄りになり、多くの交流を持たれたのです。

ククイの木
▲お手植えのククイの木
(画像引用:在ホノルル日本国総領事館)

当時のハワイには日系人が23万人いたとされ、日系1世も数が多かっただけに、その歓迎ぶりは大きなもの。ホノルル御着の際は5,000人ものお出迎えがありましたが、現地人の心情を汲んでか日本の総領事により万歳三唱は禁じられまし
た。

ちなみにハワイの総領事館の庭には昭和天皇がお手植えされたハワイの州木、ククイの木が今も青々と葉を茂らせています。

全14日間に及んだ日程を終えられ、東京へ御着された両陛下。しかし、これで話が終わったわけではありません。
フォード大統領から陛下にもうひとつプレゼントがあったのです。それはオオカナダヅルと呼ばれる鶴でした。日米両国の友好の証としてひとつがいが献上され、上野動物園が預かります。
ちなみに上野動物園の正式名称は東京都恩賜上野動物園といい、昭和天皇のご成婚の記念に、大正13年(1924年)当時の東京市に下賜された動物園です。

鶴の名前はオスがジョージ、メスがマーサ。アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)とその妻マーサ(Martha Dandridge Custis Washington)の名から命名され、昭和50年(1975年)12月にやってきました。

オオカナダヅル
▲オオカナダヅル
(画像引用:公益財団法人東京動物園協会)

そして昭和57年(1982年)、上野動物園開園100周年の記念行事に陛下がご臨席されます。その際に陛下にお目通りをする動物は何がいいだろうかと動物園の関係者は考えますが、ここはやはり陛下の縁で来園した動物がよいだろうとのことから、このオオカナダヅルが選ばれました。

記念式典の後、陛下はつがいのツルをご覧になり、そして生まれて間がないヒナに給餌なさったのだそうです。
ジョージは平成7年(1995年)、マーサも長生きしましたが平成22年(2010年)にこの世を去りました。

ここまで昭和天皇とフォード大統領相互の訪米訪日について述べましたが、最後に、昭和天皇の切なる希望、しかし叶わなかったものを紹介して終わりたいと思います。

沖縄県公文書館が平成24年(2012年)9月に公開した屋良朝苗(やらちょうびょう)元知事の日記に陛下にまつわる記述が残っています。
昭和50年(1975年)に沖縄で開催された沖縄国際海洋博覧会への皇太子殿下(今上陛下)名誉総裁就任の発表を受け、屋良知事が宮内庁を訪ねたときのこと。
その際に面談した宇佐美毅(うさみたけし)宮内庁長官(当時)が知事に対して吐露したひとこと。

天皇陛下から「私はどうするのだ アメリカに行く前に(沖縄に)行けないか」との御下問があって困った。

また、博覧会に外国から元首がお見えになるのに、天皇が参加しないとなると大変具合が悪い、とも陛下が仰ったと語ったのです。知事は陛下に園遊会で拝謁したことがあり、「陛下の御気持もうかがって胸がいたむ」と記しています。

米国も大切だけれども、沖縄をまずは優先したいという陛下の切なる願いでしたが、やはり当時の状況では叶うことは許されませんでした。

参考:インガーソル社(http://ingersoll-disney.jp/history/)
新聞昭和第208号 昭和聖徳記念財団
公益財団法人東京動物園協会 (http://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&inst=ueno&link_num=16274)
スポニチアネックス 2012年11月13日付


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