今上陛下のエピソード

忘れがたき島

今上陛下

東京から南へ175km。伊豆諸島にある三宅島。直径8kmほどの丸みを帯びた形をしたこの島の中央にある標高775mの雄山(おやま)は度々噴火を繰り返してきました。戦後だけでも昭和37年(1962年)、昭和58年(1983年)、平成12年(2000年)と3回噴火しています。


    

平成12年(2000年)6月、突如として三宅島を群発地震が襲いました。7月には神津島で震度6弱を観測し、8月、雄山山頂の陥没口から噴火が始まります。噴煙は上空15,000mに達し、遠く離れた本土にも硫黄臭が届くほどの威力でした。

    

二酸化硫黄の排出が1日5万トンにも及んだため、到底人が生活できるレベルではなく、約3,800人を抱える三宅島の住民の全員の島外避難が決定します。

    

最初に8月29日に児童・生徒が避難。つづいて9月2日、防災関係者を除く全島民の避難がはじまり、2日後には完了。
避難先は多岐に及びました。東京都あきる野市の都立秋川高等学校をはじめとして、都内23区32市町村、さらに20道府県の公営住宅や親戚縁者の元へ身を寄せるというバラバラなものとなってしまいます。当然、既存の集落のコミュニティは機能停止に陥りました。

噴煙を上げる雄山
▲噴煙をあげる雄山
(画像引用:朝日新聞社)
    

住み慣れた島を離れ、見知らぬ土地で先行きも見通せないままコミュニティ消失状態で暮らすことは、若くて元気な人ならともかく、幼い子供やある程度年老いた身体には堪えるものです。

    

避難先での生活はマスメディアを通じて報じられ、大きな関心を呼びます。不安を抱えつつそれでも前向きに生きる被災者たちを思う気持ちは、皇室の方々もわたしたち国民と同じでした。むしろ被災者に対してより強く関心を寄せ、労りになられたのです。

    

まず、全島避難開始から3カ月半後の12月、皇后陛下が避難先の秋川高校に行啓されます。放課後、家族と離れて暮らす300人以上の小中高生を見舞われ、この日激励の公演にやって来た劇団に礼状を書いていた子供たち一人ひとりに「避難してきた時は暑かったけれど、だんだん寒くなりましたね。体に気をつけてください」などとお声がけされました。
今上陛下もまた三宅島に思いを寄せられて、次のような御製を詠まれています。

火山灰ふかく積りし島を離れ人らこの冬をいかに過さむ

年が明けてもやはり島民の避難生活は続きました。
平成13年(2001年)7月、今上陛下と皇后陛下は新島神津島を行幸啓されます。こちらでも避難者へのお見舞いをされ、さら多量の火山ガスのため立ち入りを許されていない三宅島をヘリコプターにて上空から視察されました。
8月にはご静養のため静岡県下田市の須崎御用邸に行幸啓になられましたが、その折にも下田市内の東京都荒川区立下田臨海学園をお訪ねになります。

下田臨海学園
▲下田臨海学園
(画像引用:荒川区)
    

本来は児童の臨海学校に用いられる施設ですが、ここでも三宅島の漁業関係者とその家族28人が避難生活を送っていたのです。両陛下はやはりひとりひとりにお声をかけて励ましになられるのでした。
島民はメディアに対し、「心がなごみ、ほんのひと時疲れを忘れました」と感想を述べています。

    

そして平成14年(2002年)3月には東京都八王子市のげんき農場へ。50分かけてじっくりと農場をまわられ、ここで働く島民44人を励ましになられます。
島の産物である明日葉を植えながら、どれほど三宅の土を恋しく思っているだろうかとお感じになられた皇后陛下の御歌を紹介しましょう。

これの地に明日葉の苗育てつつ三宅の土を思ひてあらむ
    

さらに平成15年(2003年)4月にも、島民の雇用確保などのために1年前に開園し、島特有の野生植物の保護や、特産の花、観葉植物の栽培を実施していた東京都江東区のゆめ農園を行幸啓。約60人の島民と言葉をお交わしになられました。村の長谷川鴻村長(当時)は「両陛下は常に心配してくださり、励みになる」と感想を述べています。

噴火から3年が経とうとしているこの頃になってようやく、島民の1泊~数日泊の一時帰宅が実施され、わずかばかりの滞在ながらも島民は故郷の土を踏むことができるようになりました。

年が明け、平成16年(2004年)5月。 両陛下の三宅島への思いは途切れることなく続きます。
避難している高齢者やその家族に対し、暮らしの不安や悩みの相談窓口として都内に5ヵ所設けられたうちのひとつ、東京都北区にある桐ヶ丘支援センターを行幸啓され、やはりこちらでも一人ひとりを労られました。

 
昭憲皇太后
▲桐ヶ丘支援センター行幸啓(画像引用:東京都)

噴火から5年もの年月が流れ、待ちに待ったときがやって来ます。
平成17年(2005年)2月、三宅村長は避難指示を4年5カ月ぶりに解除。島民が島に戻り始めました。
それでも4年5カ月という時間はあまりにも長く、島に戻らずに避難先に根を下ろして新たな生活基盤を築くことを選択した島民も数多くいます。島での生活を再スタートした島民は5月時点では2,000人弱にとどまりました。
また、島の一部集落はガスの危険が高いままだったため、立入禁止措置が継続され、島民にはガスマスクが支給される状況。以前と変わらぬ日常とは程遠いながらも、ようやくの島生活開始です。

判っていたとはいえ、荒れ放題になっていた家や庭、道路、施設を立て直すのは大変な苦労でした。
そんな中、帰島から1年経ちようやく復興の兆しが見えてきたころ、島に両陛下が行幸啓になるというニュースが流れます。

ああ、やはり陛下は島をお忘れではなかった、という歓びの気持ちと、陛下をお迎えするのだから、島をより綺麗にしなければとの決意で、島はお迎えの準備に力が入ります。放置されたままだった瓦礫は片づけられ、雑草は刈り取られ、使われなくなっていた校舎も大掃除。

お出迎えの人たちに声をおかけになる両陛下
▲お出迎えの人たちと両陛下
(画像引用:東京都)
   

平成18年(2006年)3月。あいにくの雨模様でしたが、両陛下を載せたヘリコプターは無事に三宅島に御着しました。
火山ガスの状況が最も心配されましたが、幸いにして準備されたガスマスクが使用されることはなかったようです。

   

現地で復興に取り組む住民を激励したいとの強い思いを受けて実現したこの行幸啓では、阿古小学校や役場臨時庁舎、阿古漁港、高齢者在宅サービス支援センター「あじさいの里」をご訪問になられました。各所では東京や下田の避難所でお声掛けされた避難者と再会し、再度の励ましをかけるシーンも。

平野祐康村長(当時)は両陛下の案内役を務め、「両陛下は復興状況を非常に心配されていた。これからは島民のためにしっかりと島をつくってくださいと励まされた」と語り、加えて島の安全と観光客の来訪を求めるコメントを出しました。
この行幸啓を受けた陛下の御製も紹介しておきましょう。

ガス噴出未だ続くもこの島に戻りし人ら喜び語る

その後も三宅島の復興は続き、平成19年(2007年)には石原慎太郎東京都知事提唱による三宅島観光振興策である「チャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバル」が実施され、現在もWERIDE(ウィ―ライド)三宅島と名を変えて、溶岩地帯や牧草地を駆け廻るバイクレースが行われています。

平成23年(2011年)には三宅島の噴火に伴う全島避難により離れ離れになった仔犬とその家族の再会を描いた映画ロック 〜わんこの島〜が公開。
品川プリンスシネマにて上映されたプログラムには出演者とともに両陛下もご臨席されました。
ともに鑑賞された平野祐康三宅村長(当時)は「島内の経済状況について、漁業や農業はどうなっていますかということお聞きいただきました。また火山ガスのことを心配されていて、濃度は減ってきておりますとお答えしました」と語り、10年以上にわたる三宅島に対する陛下の深い思いを改めて知る夕べとなりました。

参考:平成12年(2000年)三宅島噴火災害の記録
(http://www.g-investor.com/partner/docs/miyakejima_record.pdf)
宮内庁(http://www.kunaicho.go.jp/)
朝日新聞 asahi.com
(http://www.asahi.com/paper/special/miyake/news/national20034.html)
内閣府平成17年版防災白書(http://www.bousai.go.jp/hakusho/h17/index.htm)
三宅島スナッパーblog(http://snapper.blog6.fc2.com/)
東京新聞 追跡・三宅島災害(http://www.tokyo-np.co.jp/saigai/)
シネマトゥデイ(http://www.cinematoday.jp/page/N0034565)


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