皇后陛下のエピソード

皇后陛下が愛されたピアニスト

皇后陛下

田中希代子(たなかきよこ)という女性をご存じでしょうか。彼女は日本の音楽史に金字塔を打ち立てた功績を持つピアニストの第一人者。惜しくも既に世を去っていますが、皇后陛下ともゆかりがあった人物なのです。


田中希代子
▲田中希代子
(画像引用:キングレコード株式会社)

昭和7年(1932年)田中希代子は父がヴァイオリニスト、母は声楽家という東京の音楽一家に生を受けます。
4歳のころから近所の先生にピアノを教わり始め、東京女子高等師範学校附属小学校から戦時中の集団疎開を経て、同校の附属女学校に復学しました。

戦後の学制改革のあおりと、当時師事していたロシア生まれのドイツ人ピアニストであるレオニード・クロイツァー(Leonid Kreutzer, Леонид Давидович Крейцер)の勧めもあって東京音楽学校(現・東京藝術大学)の受験はせずに終わります。そのぶん、パリUFAM国際婦人コンクール名誉賞を受賞したピアニスト安川加壽子(やすかわかずこ)のもとでピアノの腕を磨いて行くのでした。
その間、希代子は日本音楽コンクールに2度チャレンジし、入賞しています。

昭和25年(1950年)希代子は安川の推薦を受けて戦後初のフランス政府給費留学生の一人に選出されました。当時の海外渡航は船旅でしたので、希代子もラ・マルセイエーズ号でフランスへ向けて旅立ちます。
希代子はお世辞にも丈夫な身体ではなかったようで、パリ国立高等音楽・舞踊学校(Conservatoire national supérieur de musique et de danse de Paris)に入学するものの、結核を発症して療養生活に入る羽目に。

パリ国立高等音楽・舞踊学校
▲パリ国立高等音楽・舞踊学校
(画像引用:http://www.andreas-
praefcke.de/carthalia/)

そうこうするうちに卒業の時期到来。卒業試験日の前日まで療養していた希代子でしたが、なんとプルミエ・プリ(1位)で合格し卒業してしまうのです。

昭和27年(1952年)、希代子はとうとう快挙を成し遂げました。
ジュネーヴ国際音楽コンクール
(Geneva International Music Competition)で最高位特賞(1位無しの2位)に輝き、日本人初の国際コンクール入賞の栄誉を手にしたのです。
さらに翌年にはロン=ティボー国際コンクール(Concours international Marguerite-Long-Jacques-Thibaud )にて4位入賞を果たし、5年毎にワルシャワで開催されるショパン国際ピアノ・コンクール(Międzynarodowy Konkurs Pianistyczny im. Fryderyka Chopina)でも10位入賞の活躍を見せ、日本を代表するトップピアニストとなりました。

ショパン国際ピアノ・コンクール
▲ショパン国際ピアノ・コンクール
(写真は1937年大会のもの)

凱旋帰国した希代子は日比谷公会堂でコンサートを開催し、パリ、のちにウィーンに拠点を置きつつ海外を飛び回る生活がスタート。

その一時帰国の際、皇后陛下の母校である聖心女子大学に招かれて演奏を披露します。
この演奏会が皇后陛下(当時は皇太子妃殿下)と希代子の出会いでした。
当時ピアノとは奏法を厳守するものであり、希代子の表現力を重んじた演奏は日本のピアノ界では異端でしたが、正確な打鍵と圧倒的な表現力を兼ね備えたその演奏に皇后陛下はいたく感動されたのです。

演奏の後に拝謁した際、皇后陛下からお言葉を賜った希代子はそれを生涯の歓びとし、そのとき揃って撮られたスナップを一生ピアノの上に飾ったほどでした。

しかし運命は残酷なもの。昭和43年(1968年)希代子は高熱と関節痛、指の硬直といった不調に襲われます。疲れは痛みとなり演奏どころではありません。度重なる検査の結果、判ったことは膠原病 (こうげんびょう)罹患でした。

ステージに立つことができなくなった希代子は闘病生活に入ります。そのさなか、演奏することはできなくともピアノと関わってほしいとの周囲の意志から国立音楽大学や桐朋学園大学で教鞭をとる希代子。
しかし昭和55年(1980年)、膠原病治療薬コーチゾンの副作用により脳梗塞で倒れてしまいます。

大喪の礼
▲大喪の礼
(画像引用:西野神社社務日誌)

そのような好転せぬ状況が続いた平成元年(1989年)2月19日。昭和天皇が崩御し、5日後に大喪の礼を控えた夜のことです。

TBSラジオにて1時間のラジオドラマがオンエアされました。
夜明けのショパン―よみがえる天才ピアニスト田中希代子」 は井川比佐志さん、中尾幸世さんの声に加え、希代子本人のインタビュー録音を交えたもので、放送文化基金賞を受賞したプログラム。
彼女の半生のドラマと演奏の組み合わせで放送されました。

後日、TBSに宮内庁から電話が入ります。昭和天皇崩御、大喪の礼で放送をお聞きになれなかった皇后陛下が所望されたもので、番組スタッフはすぐに録音テープを献上。皇后陛下からは希代子へのお見舞いのお言葉とスタッフへの感謝、労いのお言葉が寄せられました。

そののち、希代子は新日鉄音楽賞(現・新日鉄住金音楽賞)特別賞を受賞しますが、残念なことに平成8年(1996年)2月22日、自宅で脳溢血で倒れ、2月26日午前、搬送先の病院にて逝去します。64年の生涯でした。

午後には、訃報を耳にされた皇后陛下の使者が希代子の自宅へ弔問に到着。使者は皇后陛下ご自身の御手で宮中で摘まれた草花の花束を「悲しみでいっぱいです」との皇后陛下のお言葉とともに供花しました。

皇后陛下は親しいご友人に「希代子さんの演奏は、私の心の支えでした」と仰ったのだそうです。

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参考:石井信平の館(http://www8.plala.or.jp/shinpeishi/)
一世official website(http://www.pianist-sonobe.com/index2.htm)
wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%B8%8C%E4%BB%A3%E5%AD%90)
微音空間(http://www.utopiano.com/nakao/audio/008.htm)
公益財団法人放送文化基金(http://www.hbf.or.jp/awards/index.html)


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