昭和天皇のエピソード

昭和天皇の御製から~戦後編~

昭和天皇

その生涯に1万首もの和歌をお詠みになられた昭和天皇。天皇が作製された和歌や絵画などを御製と言いますが、今回は戦後の昭和天皇の御製をとおして、陛下の御心と世情に思いを馳せてみましょう。


うれしくも国の掟のさだまりて あけゆく空のごとくもあるかな

まずは昭和22年(1947年)5月に施行された日本国憲法についてお詠みになられたものから。

戦争の荒波も治まり、ようやくこれから戦後復興という段。その根幹となる憲法の制定が紆余曲折ありながらも進み、いよいよ新たな日本の幕開けを期待する世情高まるときの御製です。

あけゆく空のごとくもあるかな、のとおり、新憲法は文字通り日本の夜明けそのものでした。
新時代への期待高まる国民同様に、陛下もまた希望を胸に抱かれていたのでしょう。

ああ広島 平和の鐘も鳴りはじめ たちなほる見えてうれしかりけり

同じく昭和22年(1947年)、陛下は終戦後初めて広島を行幸されます。9年に及ぶ日本全国行幸の一環です。原爆が投下されて焼け野原になった広島でしたが、ようやく復興の序となり「家が建ったね」と安堵のお言葉を漏らしたそうです。

陛下の行幸を一目でも拝したいと詰めかけた25万もの大群衆。沿道には人垣が続き、旧護国神社前の広島市民奉迎場は埋め尽くさん限りの人。
陛下は「熱烈な歓迎に嬉しく思う、広島市民の復興の努力のあとをみて満足に思う、皆の受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない」とお言葉を述べられました。

国民とともにこころをいためつつ 帰りこぬ人をただ待ちに待つ

また、戦争は国内だけで起こったわけではありません。激戦地となった南洋の島々や、大陸で戦った兵士たちの引揚げがはじまります。

引揚げは過酷なもので、着のみ着のままで大陸から日本へ渡るのは至難の業。食糧や衛生事情の劣悪さから道中や船中で力尽きて死亡する例は無数にありました。また引揚列車が襲撃され強姦されたり、通化事件のような虐殺事件まで発生するほどの困難極まるものでした。

情報伝達手段の乏しい時代ですから、生死も判らぬ状態でその帰りをただ待つしかない状況には、やはり陛下もお心を痛めていらっしゃいました。

風さゆるみ冬は過ぎてまちまちし 八重桜咲く春となりたり

そして昭和27年(1952年)4月28日。昭和天皇の誕生日の前日、「日本国との平和条約」いわゆるサンフランシスコ講和条約が発効となります。

その第1条に「連合国は日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した」とあるとおり、終戦から7年経ってようやく日本は主権を取り戻したのです。

陛下にとってもやはり待ちに待った喜びであったのでしょう。八重桜の開花になぞらえて、その心情を詠んでいらっしゃいます。

外国に旅せしむかししのびつつ 春さむきけふのいでたちおくる

続いて昭和28年(1953年)の御製です。
前年に立太子の礼を迎えられた皇太子殿下(今上陛下)は、皇太子として初の外遊に旅立たれます。ヨーロッパ12ヶ国とアメリカ、カナダを半年に渡って歴訪されました。

そのご出発の寒い朝、旅立つ皇太子殿下を見送る陛下の胸中には、いろんな思いが去来されたでしょう。

戦前に陛下ご自身が歴訪された国々を思い起こされて懐かしさに浸る中にも、異国の地での殿下の安全を祈る気持ちに溢れた御製です。

ひさかたの雲居貫く蝦夷富士の みえてうれしき空のはつたび

2年後の昭和29年(1954年)、陛下は初めての北海道行幸へ向かわれます。足かけ9年に及ぶ全国行幸の最後を飾ったのが、北の大地でした。国体の開催時期に合わせての行幸で、札幌以外にも道内の各所をお訪ねになられます。

往路は青森港から函館港へ船でお入りになられましたが、帰路は千歳より飛行機をご利用になられました。

実はこの帰路の飛行機が陛下の人生初めての航空機体験。率直な嬉しさがそのまま御製に表現されていて、思わずほっこりとさせられます。

久しくも見ざりし相撲ひとびとと 手をたたきつつ見るがたのしさ

皇太子時代から大層な相撲好きだった陛下。昭和30年(1955年)国技館では初めて天覧相撲が開催されました。それまでの天覧相撲は皇居内で行われていたのです。

国技館を埋め尽くす観客とともに久しぶりにご覧になられた相撲は、また一段と素晴らしくお感じになられたようです。

これ以降、毎年のように国技館へお出向きになり、国技館での天覧相撲は昭和62年(1987年)までに40回を数えました。 もちろん皇居でもテレビで相撲中継をご覧になられていました。

喜びはさもあらばあれこの先の からき思ひていよよはげまな

そして迎えた皇太子殿下(今上陛下)と正田美智子さまのご結婚内約。昭和33年(1958年)のことでした。

大きくミッチーブームに沸きあがる世間とともに、陛下もお喜びになられますが、おふたりに贈られた御製には厳しい優しさが表れています。

ご自身が体験されてこられた怒涛の時代を振り返りになり、次代を担う殿下へのはなむけに敢えてこのようなお言葉を選ばれたのでしょう。
実際に、成婚後の殿下と殿下妃にはいくつもの試練が待ち受けていました。

皇太子をさし遣はして水のまがに なやむ人らをなぐさめむとす

左の写真は昭和34年(1959年)に発生した台風15号、通称伊勢湾台風で水没する街の様子です。

紀伊半島や濃尾平野を中心に甚大な被害を出し、犠牲者の数は5,000人を数えるほどのすさまじさでした。戦後の昭和期最大の犠牲者数を出した災害です。

被害発生から8日後、陛下は皇太子殿下(今上陛下)を現地に派遣されました。
以降、行事や大会などへのご出席とともに、災害時の被災地のお見舞いが行われるようになります。

参考:日本会議広島(http://jp-pride.com/)
西川秀和著 アーカイブス出版刊「昭和天皇の全国巡幸」
伊勢湾台風50年事業実行委員会


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