宮城から万難を排して駆けつけた青年
みなさんは皇居勤労奉仕をご存じでしょうか。いわば皇居内でのボランティアなわけですが、皇居と赤坂御用地で除草、清掃、庭園作業などを行うものです。
15歳から75歳までの健康な男女で、15人以上60人以下のグループで申し込めば参加できます。奉仕希望月の6か月前から予約申請できますが、これが結構な人気を誇っており、数か月先まで予約で一杯だったりすることも多々あります。
▲皇居勤労奉仕での記念写真
画像引用:麗澤高等学校
(http://www.hs.reitaku.jp/)
ところでこの「皇居勤労奉仕」、なぜこれほどまでに人気があるのでしょう?
それはやはり皇室に対する国民の気持ちの表れではないかと思われます。
それに普段なかなか立ち入ることのない皇居に足を踏み入れ、広大な庭園を宮内庁職員に案内していただきがてら奉仕活動をし、さらには今上、皇后両陛下や皇太子殿下が直接お声掛けしてねぎらう御会釈の機会に恵まれるかもしれないとあれば、その人気も納得なのです。
下世話な話ですが、皇居内売店で菊のご紋入りの和菓子などを購入したりもできるのも、これまたポイント高いですよね。
この「皇居勤労奉仕」ですが、そのはじまりは終戦直後の昭和20年(1945年)11月にまで話が遡ります。
皇居坂下門に突如二人の青年が現れます。二人の名は鈴木徳一、長谷川峻(はせがわたかし、のちの衆議院議員)といいました。宮城県栗原郡の青年団のメンバーである二人が言うには戦火で荒れてしまった皇居外苑の草むしりをしたいとのこと。
連絡を受けた宮内省総務課長は熱心な二人の話を聞いて、即OKを出しました。あまりにトントン拍子に話が進むので二人はびっくりしたのだそうです。
そして12月8日、60余名の奉仕隊が宮城から皇居へ集まりました。とはいえ当時はGHQがアレコレと目を光らせている時代です。皇室のために奉仕をするとなるともしやGHQが逮捕しに来るかもしれない…ふるさと宮城を出発するときには別れの水盃を親族と交わしてきた者までいました。さらに一度に全員逮捕されるよりは、と奉仕隊を2隊に分けて先発隊をまずは派遣するという念の入れようです。
彼らにとっては決死の覚悟だったのでしょう。話を聞いた昭和天皇はひとこと話をしたいと、焼け落ちた宮殿の焼け跡の整理をしていた奉仕隊のもとへ向かわれました。
まさか陛下にお目通りできるとはつゆにも思っていなかった一同。緊張に感激も加わり、身震いしてしまいます。陛下は彼らに宮城の状況や列車の混雑のようす、米作の作柄などをお尋ねになられ、御会釈は半時間ほど続きました。
御会釈が終わり、陛下は踵を返して歩かれます。そのお姿を見送る一同でしたが、感極まったのでしょう、誰からともなく君が代を唄いはじめ、大合唱となります。
陛下は思わず歩みを止めて立ち止まり、その歌声をじっと聞かれておられました。歌声は涙声となり嗚咽も混じりましたが、それでも最後まで唄いあげたのです。
これまで天皇陛下が国民と触れ合うなどということはまずありませんでした。この奉仕隊との交歓こそが、今現在も続く皇室と国民の間のふれあいの最初の例。
翌年からスタートする歴史に名高い陛下の地方巡幸でも、やはりこのようなふれあいが全国各地で行われていくことになります。
参考:宮内庁(http://www.kunaicho.go.jp/)
仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル
(http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/)
JOG Wing 国際派日本人のための情報ファイル
(http://archive.mag2.com/0000013290/20060906000000000.html)
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