皇后陛下のエピソード

愛、ふたたび

皇后陛下

日本とオランダの交流は平成12年(2000年)に満400周年を迎えました。そのきっかけとなったのが、慶長5年(1600年)のオランダ商船による豊後(大分県)臼杵への漂着です。その後鎖国下での通商時代や大戦を経て現在に至り、いよいよ400年の節目に今上陛下と皇后陛下がオランダへ御発されました。


リーフデ号
▲リーフデ号
    

慶長年間にやってきたリーフデ号(De Liefde)は5隻の船団のうちの1隻でしたが、航海中にはぐれてしまい漂流します。110名の乗組員が乗りこんでいたものの、生存者はわずか24名という惨憺たる航海の末、臼杵市黒島あたりに漂着したとされています。

    

生存者の中には江戸幕府の外交顧問になり、東京・八重洲の地名の由来ともなったヤン・ヨーステン(Jan Joosten van Loodensteijn、耶楊子 )や、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授け、西洋式の120tの帆船を建造した英国人ウィリアム・アダムス(William Adams、三浦按針)も含まれていました。
彼らが乗っていたリーフデ号は、オランダ語で「愛」という意味。その名の通りの交流が日蘭間で長らく続きましたが、20世紀、状況は一変します。

    

昭和17年(1942年)太平洋戦争下の日本軍はインドネシアに進攻し、18世紀以降続いてきたオランダによるインドネシアの植民地支配を終わらせました。台湾式のノウハウを適用し、大日本帝国領土として軍政を敷くものの、インドネシア独立の方針を推し進めていきます。
昭和18年(1944年)にはインドネシア国旗の掲揚と国歌斉唱を解禁し、昭和20年(1945年)3月には独立準備委員会を発足、8月19日に独立宣言するという方針を決定して、日本もまたこれを承認しました。

インドネシア独立宣言
▲インドネシア独立宣言
    

過酷な植民地支配を受けてきたインドネシアにすれば希望の光となった日本ですが、逆にオランダから見ればこれは苦々しい記憶となります。
日本軍の侵攻によりオランダ軍人4万人と民間人9万人が粗末で不衛生な抑留所に収容されました。しかしその収容所とはオランダ人がインドネシア人従業員のために建てた宿舎であり、自ら放ったブーメランが自分に当たったようなもの。
オランダ人がインドネシア人に行っていたことを、そのまま日本人にされたという屈辱から、戦後長らくオランダ人の対日感情は良いものではありませんでした。

    

そのような時代の中、サンフランシスコ平和条約を締結し、その際にオランダは日本に対する賠償請求権を放棄します。
しかし、昭和31年(1956年)に結ばれた「オランダとの私的請求権解決に関する議定書」において、ジャワで拘留された民間人に与えた損害について日本は補償を実施しました。(さらに平成13年(2001年)にもアジア女性基金により医療福祉支援を個人に対して追加実施)

    

日本としては充分すぎるほどの施しをしたはずですが、いかんせん人間の感情というものは一度曲がってしまうとなかなか戻らないようで、オランダ人の対日感情は改善しなかったのです。
実際、昭和46年(1971年)に昭和天皇がオランダをご訪問された際、車に卵や魔法瓶を投げられる事態が発生しています。

ベアトリクス女王
▲オランダ国ベアトリクス女王陛下

とはいったものの、実は皇室とオランダ王室の仲はとても良好。お互いに何度も行き来があり、平成12年(2000年)の両陛下のご訪問もオランダ国女王陛下からのお招きによるものです。

    

両陛下のご訪問が滞りなく実施されるよう、小渕恵三(おぶちけいぞう)元総理とウィム・コック(Wim Kok)元首相の間で過去の問題に関する認識の事前確認、駐蘭日本大使館による戦争犠牲者団体との対話交渉、警備の徹底など、綿密にかつ着実に準備が進みました。

    

平成12年(2000年)5月。東京を御発された両陛下はスイスにお立ち寄りの上で、オランダ・アムステルダムに御着されました。
空港での歓迎式典ののち、王宮にお入りになります。

  
ダム広場と戦没者記念碑
▲ダム広場と戦没者記念碑(奥は王宮)
(画像引用:かやネズミのブログ )
    

午後、王宮の正面にあるダム広場に建つ戦没者記念碑に、両陛下がご供花。
両陛下の身じろぎひとつない真摯なる黙祷は1分間にも渡って続き、その様子はメディアを通じてオランダ全土に報道されました。このとき、ベアトリクス女王は目に涙を浮かべていたそうです。
両陛下のご訪問にあたってオランダのメディアは過去の戦争問題を中心とした報道をけたたましく重ねていましたが、このご供花以降、そういった報道はぴたりと治まるのです。

その夜の晩餐会では、ベアトリクス女王がスピーチをされました。日蘭交流のスタートであるリーフデ号の「リーフデ」はオランダ語で「愛」の意味であること、歴史の役割は思い出すことのみではなく、将来への意味を与えることにあることなどの内容であり、晩餐会の成功を受けてベアトリクス女王はガッツポーズのような仕草をしたのだそうです。

ミチルスクール
▲ミチルスクール
(画像引用:http://www.
ruudhagemans.nl/)

翌日にはオランダ国民をほっこりとさせる報道が発信されます。
アムステルダムのミチルスクール(Mytylschool)をお訪ねになった両陛下。
ミチルスクールとはモーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck)作の童話「青い鳥」(L'Oiseau bleu)の登場人物チルチルとミチルから名づけられ、脳障害、筋ジストロフィー、交通障害などを抱える児童生徒200人強が在籍する養護学校です。

両陛下が施設に御着されたとき、児童たちは中庭で絵を描いていました。和やかなお出迎えを受けられた両陛下は睦まじく交流を持たれていましたが、皇后陛下が机に伏せたままの姿で動かない女の子にお気づきになります。金色に光るおもちゃの王冠を頭に載せたその女の子は、両陛下をお迎えしようとはりきりすぎてしまい、御着前には疲れて眠りこんでしまっていたのでした。

起こしてしまうのもかわいそうだと皇后陛下はそのままにされていましたが、はっと目を覚ました女の子はすでにお出迎えが終わってしまったことを察知して泣き出してしまいます。
すぐに走って皇后陛下のもとへ駆け寄った女の子。するとスタッフの頼みもあり、皇后陛下は女の子をお抱きしめになったのです。歓んだ女の子は皇后陛下にぎゅっとしがみつきました。

 
少女を抱きしめになる皇后陛下
▲少女を抱きしめになる皇后陛下

この写真はオランダで大々的に報道され、反響を呼びます。
翌日のライデン大学の寮の前で窓から身を乗り出した女子大生と楽しげに語らいになる両陛下のご様子の報道とともに、両陛下の垣根なく優しく振る舞われるお人柄を的確に周知させたのです。

ライデン大学学生寮の壁に残るプレート
▲ライデン大学学生寮に残るプレート
(画像引用:長崎←→オランダ旅日記2008)
   

オランダご訪問前のどちらかといえば批判めいた現地の報道は姿を消し、歓迎ムードに染まって行く様子は不思議なもので、これぞやはり両陛下の成せる賜物です。

皇室外交には1,000人の外交官の価値があるなどという比喩がありますが、5年後の平成17年(2005年)6月に米国の独立系世論調査機関ピュー・リサーチセンター(Pew Research Center )が発表した調査によると、オランダ人の68%が日本に好印象を持っているとのこと。

好感度の高さは単に好かれて嬉しいというだけでなく、現地での信用にも繋がり、ひいてはビジネスにも影響します。
両陛下のご訪問でせっかく上がった評判ですから、むざむざと落したりはしたくないものですね。

参考:宮内庁(http://www.kunaicho.go.jp/)
自由主義史観研究会(http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_g_4.html)
ワインと外交 西川恵著(新潮社刊)
大阪教育大学附属高等学校池田校舎
(http://www.ikeda-h.oku.ed.jp/education/bulletin/contents/98kaigai.html)
Pew Research Center
(http://www.pewglobal.org/2005/06/23/us-image-up-slightly-but-still-negative/)


他のエピソードを読む

 


Powered By 画RSS

→ページトップへもどる

お問い合わせ・サイトのご利用条件・プライバシーポリシー・本サイトに掲載している写真について
Copyright(c)2012 皇室なごみエピソード集 All Rights Reserved