昭和天皇のエピソード

ともしびに思いを込めて

昭和天皇

明治45年(1912年)3月、日本の戦艦史が新たな一歩を踏み出しました。それまでの明治期、戦艦の新造はすべて海外発注か海軍工廠で製造されるしかなかったのですが、主力艦としては初めて、民間の造船所である神戸川崎造船所(現・川崎重工業株式会社)に発注されたのです。その艦の名は榛名 (はるな)。

新造途中で発覚した故障による遅れの責任を感じて川崎造船所造機工作部長が自害するという悲劇もありましたが、なんとか大正4年(1915年)には竣工します。竣工後は第一次世界大戦での警備活動を経て、大幅に近代化の改装を実施。
その後、榛名は昭和3年(1928年)の昭和天皇即位を祝して開催された大礼特別観艦式において、陛下の御召艦を務めています。

戦艦榛名
▲戦艦榛名

昭和6年(1931年)11月。陸軍特別大演習の統監と地方民情ご親閲のため、昭和天皇が熊本に行幸されました。
熊本では第五高等学校(現・熊本大学)や熊本県立中学済々黌(せいせいこう、現・熊本県立済々黌高等学校)などをご視察されています。

行幸記念碑
▲行幸記念碑
(画像引用:国立大学法人熊本大学)

また熊本初のハンセン病病院である回春病院を設立して日本におけるハンセン病の歴史に大きな功績を残したハンナ・リデル(Hannah Riddell)ともお会いになっています。

陛下はもともと回春病院のご視察を望まれましたがそれは叶いませんでした。代わりに侍従が病院を訪ねたものの、リデルもまた体調がよくなかったため、その日は侍従を出迎えることができなかったのです。
翌日、体調がやや回復したリデルは県庁へ足を運び、ハンセン病九州療養所長の河村正之(かわむらまさゆき)の肩を借りて廊下を歩き、ようやく拝謁となりました。しかしリデルは陛下にお目にかかった途端、かねて練習していたお辞儀のやりかたをど忘れし、膝が痛いのにも関わらず西洋婦人式の挨拶をしてしまったのだそうです。

リデル、ライト両女史記念館
▲リデル、ライト両女史記念館(旧熊本回春病院らい菌研究所)
(画像引用:熊本市観光文化交流局文化振興課

この熊本行幸のハイライトといえば、天覧標本でしょうか。
昭和天皇の生物学への造詣の深さは既にこの当時から日本中に知れ渡っていました。これは、行幸される陛下のために熊本県内の珍しい動植物の標本を県民こぞって新たに作製して、陛下にご覧いただこうという趣向です。

この天覧標本の作製にあたっては、聖駕奉迎(せいがほうげい)熊本県動、植、鉱物採集動員が結成され、4年生以上の尋常小学校児童から教職員まで50万人以上が参加。
なんと合計933,044点にのぼる標本が作られました。
もちろん90万点もの膨大な標本を陛下にお見せするわけにもいきません。その中から優秀なものを動物、植物、鉱物など各分野の研究者が選定し、熊本県ならではの生態が伺える標本7,519点を天覧標本として陛下に献上しました。7,500点でも充分多すぎる気もしますが…。

陛下はこの標本を大変喜んでご覧になりました。ご休憩の時間まで使われて3度も見返したといいます。
ご覧になった標本は天覧の印が押され、その後各学校へ返還されました。膨大な標本のなかには、現在では県内で絶滅危惧種となっている植物も数多く含まれており、当時の自然の豊かさを垣間見ることができます。

天覧標本
▲天覧標本・こしあぶら
昭和6年8月14日/採集地:球磨郡市房山/学校名:熊本縣女子師範學校
(画像引用:「昭和六年の天覧標本」展示図録

この天覧標本は、その後の熊本県の博物学の大きな財産へと成長。理科教育の教材としての使用はもちろん、自然調査とその記録の重要性を県民に認知させた功績は大変なものです。

有志で設立された「聖駕奉迎博物採集動員記念採集会」は、行幸の翌月には早くも第1回の採集会を開催します。昭和21年(1946年)に熊本記念植物採集会と名称を変えてからも活動は脈々と続き、なんと現在に至るまで昭和20年(1945年)の終戦前後と昭和28年(1953年)に発生した白川大水害の直後を除いて、県内各地で毎月開催されているのです。

錦江湾に浮かぶ桜島
▲錦江湾に浮かぶ桜島

さて、熊本行幸を無事にお済ませになられた陛下は、鹿児島へお立ち寄りになり、鹿児島からは先述した戦艦榛名で横須賀へ御発されました。

鹿児島港に大勢の市民がお見送りに駆けつけ、盛大な歓声に沸きかえる中、榛名は駆逐艦4隻を従えてゆっくりと出航します。日は暮れ、夜の帳が下り、5隻の艦は灯りひとつない暗い錦江湾を南下していきました。

6時。夕食の時間となりました。普段は侍従たちが交代で陛下の食事のご相伴をしていましたが、この日はバタバタしていたこともあり、陛下は一人で夕食を召し上がられていました。
そして侍従たちも皆揃って同じ時間に夕食。しかし、何かを感じ取ったのかもしれません、ひとりの侍従・木下道雄(きのしたみちお)氏が、ふと甲板に出ていきます。すると、右舷の手すりの望遠鏡のあたりに立つ人影が見えたのでした。
それは暗い甲板にひとり立ち、挙手のご会釈を岸に向かってされていらっしゃる陛下の姿だったのです。


▲榛名はおおよそ赤ピンのあたりを南下

木下侍従は見送りの奉迎船が来ているのだろうと察して駆け寄り、海上を見まわしてみましたが船影はどこにもありません。
はて?どうしたことだろうと望遠鏡を手に取って、10kmは遠く離れた薩摩半島のぼんやりとした島影を見てみると…

おそらく指宿のあたりでしょうか。海岸線に沿ってうっすらどこまでも伸びる明るい線が見えたのです。距離にすると20km、いや30kmはあるかもしれません。糸のような細い線がどこまでも続いていました。
また、線よりも少し高い位置には一定の間隔をおいて点が光っていたのです。

線の正体は提灯と松明。点の正体は篝火でした。陛下の艦がお通りになることを知った薩摩半島の村人たちが手に手に提灯や松明を持ち、岸辺にずらりと並んで陛下をお見送りしていたのです。体力のある若者は山に登り、篝火を焚いていたのでした。
陛下はこの灯りを望遠鏡で見つけ、挙手のご会釈をおひとりで岸に向かってされていたのです。

これを知った木下侍従は、村人たちの誠意がしっかりと陛下に伝わっていることを村人に知らせてやりたいと考えました。けれども、無線で電信を送ったところで現地に届くのは翌朝になりかねません。ではどうするか…
即座に艦長室へ足を運び、事情を説明するや否や、6機もの探照灯が煌々と闇夜を、そして遠くを照らしだしました。その光はもちろん岸まで届いたのです。

実際に現地で篝火を焚いていた村人のひとりは、のちに次のように証言しています。
「暗闇のため岸からは軍艦の姿こそ見えませんでしたが、この時間に沖を陛下の艦が航行していらっしゃることを信じ、お見送りしていました。
そこへ突然、探照灯が照らされたので、一同は思わず歓声を上げて手に手をとって喜んだのです」

国民の陛下への思い。そして陛下の国民への思い。
そのふたつが見事に昇華したエピソードですが、別にこれはこの当時だけのことではありません。平成の世の現在でも同じこと。行幸先で沿道に垣根のごとく民衆が押し寄せて歓迎の小旗を振るおなじみの光景も、根っこは同一なものですよね。

参考:熊本市観光文化交流局文化振興課
(http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/kyouikuiinnkai/bunka/rideruraito.htm)
国立大学法人熊本大学(http://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/
gaiyo/rekishimap)
「昭和六年の天覧標本」展示図録 熊本大学五高記念館・熊本県文化企画課
(http://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/61479.pdf)
新編 宮中見聞録(木下道雄著・日本教文社刊)


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