昭和天皇のエピソード

昭和天皇の御製から~昭和後期編~

昭和天皇

戦前、戦後編に次いで、昭和後期の昭和天皇の御製をとおして、陛下の御心と世情に思いを馳せてみましょう。


ゆかりよりむそぢの祝ひうけたれど われかへりみて恥多きかな

最初は、昭和36年(1961年)の還暦の祝いの折に詠まれた御製から。

世は戦後復興も落ち着いて、高度成長期まっただなかの時代。神武景気を上回る42か月もの期間続いた岩戸景気のころです。

六十の御賀を迎え、歩まれて来られた人生を振り返られた陛下。動乱の時代の数々の場面が御心の中を去来されたに違いありません。

あのときこうしておけば良かった、ああすれば良かったと後になって悔むことは、誰にしもあることです。そして陛下にもやはりそのような思いがあったことを吐露された、偽らざる心情の御製。どこか陛下を近しく感じてしまう一首です。

雨にけぶる神島を見て紀伊の国の 生みし南方熊楠をおもふ

翌昭和37年(1962年)、陛下は和歌山県を行幸されました。田辺湾越しに熱帯・亜熱帯の植物が混在して生息している神島(かしま)を遠望された陛下。

そして詠まれた和歌は和歌山が生んだ偉人南方熊楠(みなかたくまぐす)のことでした。
歩く百科事典の異名を持つ熊楠は、生物学者であり民俗学者でもあります。

このとき陛下が熊楠について詠まれたのは、もちろん彼にまつわる思い出がおありになったから。

実は昭和4年(1929年)に、熊楠は陛下に謁見しているのです。当時、やはりこの地に行幸されていた陛下。神島の沖に戦艦長門を浮かべ、艦上にて熊楠は陛下に進講(貴人に対し講義をすること)をしたのでした。

その際に熊楠は「粘菌標本」を陛下に献上します。ふつう、献上物は桐箱といったものに納めて献上するものなのですが、熊楠はなんとキャラメルの空き箱に標本を入れて献上したのだそうです。
再び和歌山の地をお踏みになられた陛下は、熊楠の破天荒っぷりを懐かしく思い出されたに違いありません。

君のいさをけふも思ふかなこの秋は さびしくなりぬ大磯の里

昭和42年(1967年)の10月、吉田茂元首相が死去しました。

終戦時、敗戦の責任をとろうと退位をお考えになられ、国民へ謝罪しようとなされた陛下を説得して止め、自らを「臣茂」と称した吉田茂。

その晩年、大勲位菊花大綬章(だいくんいきっかだいじゅしょう)を授かり、養父の墓前にて「養父の財産は使い果たしてしまったが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたというエピソードが残っています。

御製にある「大磯」は神奈川県大磯町で、茂の住まいがあった場所です。園遊会のおりに、「大磯はあたたかいだろうね」と陛下が声をおかけになられると、茂は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と返答して周囲を沸かせました。

頑固ながらもユーモアたっぷりの彼を日毎に思い起こしては懐かしむ陛下のお気持ちがそのまま表れた一首です。

国のためいのちささげし人々を まつれる宮はももとせへたり

昭和44年(1969年)は靖國神社が創建されて、まる100年の年です。

靖國神社は最初「東京招魂社」と称し、戊辰戦争の戦死者を祀る神社として建てられました。

それ以降、西南戦争、征台の役、日清戦争、日露戦争、済南事件、日中戦争、太平洋戦争などの戦死者246万6532柱を祀っています。

今でこそ靖國神社は外交政争の渦中にありますが、昭和44年当時は穏やかなもので、騒ぎ立てる外国もありませんでした。

命を国に捧げた英霊に敬意と感謝の誠を捧げるということは、世界中どの国においても当たり前のこと。その当たり前のことも、やがてできなくなってしまう時代が来てしまいます。

ななそぢになりしけふなほ忘れえぬ いそとせ前のとつ国のたび

続いては昭和45年(1970年)、70歳をお迎えになった際に詠まれたもの。

齢七十になっても、やはり忘れられないのは50年前の外国への旅だと、思い起こされていらっしゃいます。

陛下は大正天皇の摂政宮となる直前の大正10年(1921年)3月から9月までの半年間、イギリスやフランス、ベルギー、オランダ、イタリアを歴訪されました。

若き日の外国での思い出は陛下にとって何物にも代えがたいものだったようで、このほかにも、当時の長旅を振り返る御製をいくつも詠まれています。

戦の最中も居間にほまれの高き 君が像をかざりゐたりき

そして昭和50年(1975年)、ジェラルド・R・フォード大統領の招待により、陛下は米国を即位後初めて公式訪問されます。

2週間に渡るご滞在期間中、熱烈な歓迎と報道攻勢をお受けになり、現地の新聞紙面は連日陛下のニュースと写真で埋まりました。

アーリントン墓地やロックフェラー邸、ロサンゼルスではディズニーランドなど、精力的にお巡りになられた陛下が、リンカーン記念館(Lincoln Memorial)を訪れになられたときの思いを詠まれたのが右の御製。

米国との戦時下であっても、偉大なる指導者だったリンカーンの像を居間に飾っていたという陛下の吐露。戦時中の人がこの御製を聞いたらびっくりしてしまうかもしれませんね。

わが庭のそぞろありきも楽しからず わざはひ多き今の世を思へば

昭和57年(1982年)の年頭に詠まれたのが左のもの。

前年は、エジプトのサダト大統領が暗殺され、エルサルバドルでは、市民900人が軍隊によって殺害されるなど、海外で痛ましい事件が発生しました。

国内でも北炭夕張新鉱で発生したガス突出・坑内火災事故で93人もの犠牲者を出す大惨事があったこともあり、新たな年を清々しいお気持ちでお迎えになられる気にはなれない陛下のご心情がそのまま込められています。

天皇の第一の職責は国家と国民の安寧を祈ることです。日々の祈りがそのまま社会に通じる世であってほしいとの陛下の願いの歌でもあるのかもしれません。

思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果さむつとめありしを

昭和62年(1987年)、陛下は沖縄訪問を控えてしました。沖縄海邦国体の御親覧がその主旨でしたが、陛下は非常に強いご意志で沖縄への行幸をお望みになられていたのでした。
なぜならば、戦後全国を巡幸された陛下がただひとつ行幸できなかったのが沖縄だったからです。
米国から返還後も、ひめゆりの塔事件が発生したこともあり、行幸は長い間行われることはありませんでした。

ようやく巡って来た沖縄行幸の好機。しかし不運なことに、陛下は病に倒れ、手術をお受けになることになってしまったのです。

やむをえず陛下の名代として皇太子殿下(今上陛下)が行啓し、
「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」と陛下のお言葉を代読されました。

お言葉を受けて、西銘順治沖縄県知事は「感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う」とメディアに話しています。

あかげらの叩く音するあさまだき 音たえてさびしうつりしならむ

最後に、陛下の1万首もの御製のうち、一番最後に詠まれたものを紹介します。

昭和63年(1988年)9月に、那須御用邸で詠まれたものです。

早朝の森。アカゲラの木をつつく音が聞こえていたのが、いつの日からかその音もしなくなってしまいました。寂しいけれど、日は移ってしまったのです。

素直に読めばこのような意味ですが、これぞ人生の最期という折に詠まれた歌ですので、人によってはこの御製をさまざまに解釈するようです。
あなたは昭和天皇最後の御製をどのように受け取りましたか?

参考:wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87)


他のエピソードを読む

 


Powered By 画RSS

→ページトップへもどる

お問い合わせ・サイトのご利用条件・プライバシーポリシー・本サイトに掲載している写真について
Copyright(c)2012 皇室なごみエピソード集 All Rights Reserved