皇后陛下のエピソード

永遠の水仙

皇后陛下

平成7年(1995年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災。神戸市中心部などで震度7を観測、当時では戦後最大の都市型地震となりました。死者6,434人を数えた大災害、家屋全壊は10万棟を越え、地震後に長田区などで発生した火災による二次災害では7,000棟以上が全焼。あたりは一面焼け野原となってしまいます。

震災から半月後。電気・ガス・水道はおろか、JR・阪急電鉄・阪神電鉄・山陽新幹線も復旧していません。阪神高速3号神戸線は橋脚が総崩れのままの状態で、国道2号と細い市街路のみがなんとか機能しつつも、復旧作業車などで大渋滞を引き起こしている中でのことです。
日付は1月31日。今上、皇后両陛下が被災地神戸にお入りになられました。


炎に包まれる菅原市場
▲炎に包まれる長田区の菅原市場

JR山陽本線兵庫駅。神戸の中心街である三ノ宮駅から西へ3つ目、駅から線路沿いに西へ行けば長田区菅原通に辿りつきます。
こちらには菅原市場(すがはらいちば)と呼ばれたアーケードの商店街が地域の台所の任を担っていました。
早朝に発生した地震で倒壊する商店。追い討ちをかけるように火の手が商店街を襲います。

炎はまたたく間に延焼し、アーケードの骨組だけを残して全てが燃え尽きてしまいました。

焼け落ちた菅原市場
▲焼け落ちてしまった菅原市場

地震と火災のダブルパンチで壊滅的な被害を受けた長田区の様子は、連日TVや新聞で報じられました。震災から2週間後に現地を行幸された両陛下もその惨状を目の当たりにされるのです。

バスで市場跡にご到着された両陛下。おふたりのご眼前にはあらんかぎりの瓦礫と、焼け落ちて灰になってしまった家屋の跡が広がっていました。この長田区だけで死者900人を数える惨状。遺体の捜索がまだ行われている最中なだけに、その焼け跡は悲惨なものでした。

花束を献花しようと瓦礫に近づかれる皇后陛下

一礼のあと、じっと焼け跡をお見据えになられた皇后陛下は、お付きの者が持つ白い箱の中から、小さな花束を取りだされます。そしてひざまずいて瓦礫の上に、そっと献花をされました。

水仙を献花される皇后陛下

その花束は17輪の水仙。その日の朝、皇居の庭で皇后陛下自らのお手で摘み取られたものでした。
水仙は海外では春の訪れと共に咲くことから希望の象徴の花。困難に負けずに希望を持って復興してほしいと願われた皇后陛下の御心そのものを表しているのでしょう。

献花された水仙

さて、この水仙の花束、このあといったいどうなったのでしょうか?
実は関係者の手により回収され、山口県へ送られたのです。行き先は山口県下松市にある日立交通テクノロジー株式会社
一見、花束とは何の関係もなさそうな会社なのですが、実はこちら、ハイテクドライフラワーを製造するエバーフラワー事業を行っています。

エバーフラワーで保存された献花の水仙
▲エバーフラワーで保存された水仙
(画像引用:時には立ち止まって様
http://blogs.yahoo.co.jp/kebin1103)

自然のままの花や葉をそのままの色と形でガラス容器の中に長い間保存することができる「エバーフラワー」技術を用いて、皇后陛下の献花はガラスの中に永遠の命を吹き込まれたのです。

現在、皇后陛下の水仙はあの頃の姿のまま、神戸市の布引ハーブ園に展示されています。

時代は移り、平成13年(2001年)4月のことです。阪神・淡路大震災から6年後、今上、皇后両陛下は再び神戸の地を行幸されます。そして水仙を手向けた菅原市場跡地へもお出向きになられたのです。

辺りはすっかり様変わりしていました。復興が進み、皇后陛下が献花されたあの瓦礫の場所は公園に整備されていました。
公園はすがはらすいせん公園と命名され、入口近くには記念プレートが設置されています。

すがはらすいせん公園のプレート

▲公園にある記念プレート。「哀悼と希望と… 阪神・淡路大震災の直後に天皇皇后両陛下にお見舞いいただき、皇后陛下から水仙の花束をお供えいただきました。」と記されています
(画像引用:神戸市都市整備公社様
http://www.kobe-toshi-seibi.or.jp/matisen/index.htm)

プレートをご覧になる両陛下
▲記念プレートをご覧になられる両陛下

プレートの中央にはあの水仙がそのままの姿で彫りこまれています。
皇后陛下の希望の水仙は「布引ハーブ園」と「すがはらすいせん公園」の両方において、永遠に大切に残され、そして語り継がれていくことでしょう。

そしてさらに時が流れます。平成23年(2011年)、東日本大震災が発生しました。
阪神・淡路大震災同様に、今上、皇后両陛下は各避難所をまわられて、被災者ひとりひとりにお声をかけられ、膝を突き合わせて励まされました。

宮城県仙台市の避難所の一つ宮城野体育館に向かわれた際の話です。
皇后陛下が被災者の佐藤美紀子さんとお言葉をお交わしになられたときのこと。佐藤さんが小さな花束を皇后陛下に手渡しました。

皇后陛下に水仙を手渡す佐藤さん
▲皇后陛下に水仙の花束を手渡す佐藤さん

その花こそ水仙でした。津波で自宅が流され、佐藤さん宅の庭に残るのはどこから来たのかも判らぬ瓦礫のみ。そんな中、地中にあった水仙の球根から出た芽がぐんぐん生長し、瓦礫の残る庭で花を咲かせていたのです。

佐藤さんは「この水仙のようにわたしたちも頑張りますから」と申し上げ、皇后陛下は「頂戴できますか」とおっしゃって花束を受け取り、皇居に持ち帰られたのだそうです。

希望と復興のシンボルとなった水仙。
平成17年(2005年)、被災後3度目となる神戸行幸で、皇后陛下は復興した街の姿をこのように詠まれていらっしゃいます。最後にこの御歌を紹介して、東北の復興を祈りたいと思います。

笑み交わし やがて涙のわきいづる 復興なりし街を行きつつ

参考:J-CASTニュース
(http://www.j-cast.com/2011/12/23117446.html?p=all)
神戸トピックス(http://kobeport.exblog.jp/)
読売新聞平成23年4月28日付朝刊


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